2023/12/3

Jリーグ創世記のヴェルディ川崎、都並敏史さんのチャント(応援歌)を楽譜にしてみました。聴音

ヴェルディ川崎時代の都並敏史さんのチャント(応援歌)を楽譜にしてみました。聴音
嬰ヘ短調(fis moll)で書いてみました。
 
ヴェルディの前身、日本リーグ時代の読売クラブの下部組織に小6から所属し高校卒業と同時に1980年にトップチームデビュー。ラモス瑠偉さんをアニキ、師匠と慕い、読売クラブ(1980年から1992年)、ヴェルディ川崎(1993年から1995年)の宴会部長と呼ばれていたと記憶しています。
日本代表でも活躍。1990年1991年、1994年は日本代表に選出されなかったものの1980年から1995年まで日本代表。ハンス・オフト日本代表監督時代、左サイドバックで大活躍したが1993年Jリーグ元年の第3節、サンフレッチェ広島戦で左足首を負傷。チーム事情で出場し続け亀裂骨折が判明するが、アメリカワールドカップアジア最終予選のメンバーとして帯同。出場するために足首にボルトを入れ痛み止めを打って通常の練習をこなすが実際には最終予選には出場しませんでした。
 
このことから当時、狂気の左サイドバックと呼ばれ、その題名で本も出版されました。
 
左サイドをタイミングよくオーバーラップし、質の高い左足のセンタリング。守備時の献身的な戻りや相手に対しての激しいタックルが印象に残っています。タックルの後はすぐに主審に謝っていました。
カニバサミタックルで何度もピンチを救ったり、イエローカードやレッドカードをもらっていました。
 
韓国に思い入れが強いことで知られ、たくさんのエピソードをテレビなどでコメントされていました。1995年には加茂周監督により代表に選出され、1995年2月のダイナスティーカップ韓国戦が最後の出場試合となりました。
 
1996年にアビスパ福岡へ移籍。1997年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)へ移籍し、1998年、現役を引退されました。